⑨大好きな母の手術一年後

 

平成14年8月13日
1年前の手術中に、死んでいたら
「今日が母の命日になってたよね!」と皆で笑いながら、
門司の花火を見に行った。
母が沢山お弁当を作ってくれていた。皆で美味しく食べながら見る花火は、
今迄生きて来て見たどの花火よりも美しくかった。
 
仕事大好き人間の母は、
なかなかゆっくりしてくれないので、上司が毎朝迎えに来て、
お昼ごはん、夜ご飯を食べさせてくれてから、送って帰ってくれていた。
 
調子が悪い時は、直ぐ迎えに行って、家でゆっくりさせた。
 
負担になる家事は全て私がして、
煎じ薬だけ、毎日何があろうと、
作る前に寝る事はしなかった。
 
仕事もバリバリこなし、沢山の友達と旅行に行ったり、
遊びに行ったりと、
毎日忙しそうで、つい、母が病気だったと忘れてしまう事もあった。
 
横内医院、二回目の診察の時に、
私と長女の予約も入れた。
 
私も長女も、重度な喘息で、
入院を繰り返してた。
 
横内先生が「みきちゃんの喘息が、煙草喘息なら、あなた、煙草辞めなさい!」
 
と、みきの(オーリングテスト)をした。
みきは煙草喘息では無かった。
 
次に、私の診察をして貰い、(オーリングテスト)の結果、私は煙草喘息だった。
 
煎じ薬は、私とみきのは、ピッタリあって、私とみきのセットも2回分貰って、後は郵送をお願いした。
横内医院の煎じ薬は重くて、とても持って帰れる重さじゃない。
 
6歳になっていたみきは、アイスを食べさせながらだと、上手に飲んでくれた。
 
2番煎じを、父に飲ませると重度のアトピーが、軽くなった。
そして、風邪さえひかなくなった。
 
私とみきは、直ぐ薬が効いて、
入院する事も、喘息になる事も、
風邪さえひかなくなった。
 
 

⑧大好きな母、横内先生との出会い

 

 

 
11月12日(月曜日)
医療センター内科診察。
「診察は3ヶ月に1度で良い」と言われる。
この日は、横内医院の初診の前日だと云うのに、午前中は、医療センター、午後からは、永井外科での点滴と、1日バタバタして、気が付いた時には夕方6時。
 
ふと、(明日の横内医院の時間は何時だっけ?)
と思った時には、横内医院は終わっていた。
青ざめて、友達に聞いて回るが、2時、2時半、3時、と皆言う事が違う。
(本当に明日だったかな?)
変な不安も出て来て、眠れそうに無い。
友達が「明日、朝1に横内医院に電話して確かめるから!」
と言うので、少し気を落ち着かせて、準備して寝る事にした。
 
皆を巻き込んで、横内医院の初診にこぎ着けたのに、これで日にちが、私の聞き間違いだったらどうしよう?!と不安で寝付けなかった。
 
友達は友達で、引き受けたは良いが、「今日じゃ無いですよ!」
と言われたら、どうやってゴリ押ししたら良いの?と、心配で心配でたまらなかったらしい。
 
11月13日(火曜日)
朝6時に、母宅へ。
母の上司が、小倉駅迄送ってくれた。
都市高速から見える朝日がとても美しく、「良い出発だね!!」
と今日の日を迎えれたのが、嬉しい気持ちが半分と、不安が半分、
無事、新幹線に乗った。
叔母と従兄弟が、博多から乗っていて出迎えてくれた。
 
9時36分、友達から「横内医院予約は2時半やけど、30分前の2時には医院に付いてて!」と一刻も速く知らせようとしてくれた、誤字脱字だらけのメールが届いた。
とにかく嬉しかった!
友達は、何と言って横内医院に電話してくれたのか?と想像したら、
気持ちが落ち着いたのか、笑いが出た。友達には感謝!!
 
12時30分、東京駅に付いた。
頼んでおいた車椅子を持って、駅員さんが席まで迎えに来てくれた。
東中野迄行きたい事を伝えると、
車椅子を押して、倉庫の中を通り、
お茶の水で乗り換えると、階段も無く解りやすいですよ!」
と丁寧に教えてくれる。
 
本当に簡単に、東中野に付いた。
13時30分には、横内医院に辿り着けた。
スタッフの方々が、優しく出迎えてくれる。
無事に、辿り着く事だけを考えていたので、本当に嬉しかった。
 
横内先生のビデオを見ている内に、時間が流れる。
 
母が呼ばれた!
私は、まだ外で待つ様に言われる。
ドキドキした。どんな告知をされるのか。
私も入って良いと、呼ばれる。
私が外で待つ間、(オーリングテスト)をしていた様子。
 
横内先生は、私の顔を見て、「体のどの部分にも、癌の活動はありません!安心して良いですよ!」
と言った。
そして、テキパキと説明に入る。
人を惹き付ける様な話し方をされる。
何故、癌になったか、考えましょう!
 
先ずは、電磁波、母は20年コンピューターの仕事をしている。
コンピューターや、携帯電話からはかなりの電磁波が出るらしい。
 
そして、1番は煙草、母は吸わないが、父は凄いヘビースモーカー、
そして、会社の皆さんもかなり煙草を吸うらしい。
吸っている人の害が、1としたら、横にいる人、つまり副流煙の害は52倍だと言う。
 
それから、よく扁桃腺しましたね!と言われた。
母は、扁桃腺が弱く、手術はしているが、良く寝込んでいた。
 
扁桃腺や、膀胱炎を起こす細菌
クラミジア、トラコマーテス)が、
肉腫にあったらしい。
これは扁桃腺だけではなく、癌の原因菌になっている。
 
今日まで1番重要だった、(癌)の薬は無くなったが、この菌を殺す薬はまだ必要なので、薬の内容が変わる。
 
横内先生は、1人1人に合う薬を、(オーリングテスト)で見極める。
 
食べ物、日常生活の指導があり、
3ヶ月後に来てください!との事、
 
癌の活動がある人は、2週間に1回と聞いていたので\(^o^)/という感じ。
横内先生は、又お会いしたい!と
強く思わずにはいられない程、
凄いエネルギーを感じた。
一目見て、大ファンになってしまった。
 
母のカルテは、初診と云うのに、ズッシリと厚く、私が日々送っていたFAXも、全部入っており、「面白い御手紙沢山有り難う!」と笑った。
 
煎じ薬は、35日分出たので、3回分を持って帰り、後は郵送をお願いした。
 
とにかく嬉しくて、横内医院を出るなり、父と弟に電話をかけた。
 
母は、行きは車椅子を使って、ヨロヨロと辿り着いたのに、
 
帰りは、いきなり元気になり、
帰りに京都に行こう!!とか言い出した。
 
従兄弟に、京都の駅の近くの宿を取らせ、ズンズンと歩く!
 
京都の宿で、美味しい物を沢山食べて、叔母と2人で直ぐ寝てしまった!
 
翌日、早朝から叩き起こされ、
電車を乗り継いで、寺に行ったり、バスに乗って、紅葉を見て回った。
 
私は、とにかく横内医院に辿り着く事しか考えて無かったので、
何処に行ったのか、全く解らない始末。
必死にヨタヨタと付いて回った。
 
 
11月14日(水曜日)
夜も九時を過ぎて、やっと家に帰り着いた。
父は、「生還おめでとう!良かった!」と母の顔を見て泣いた。
 
 
11月15日(木曜日)
早朝から母が、「おはよう!」と元気にうちに来た。
私は、体のアチコチが痛くて起き上がれない。
「何でそんなに元気なん?」
と聞くと、横内先生が、お腹に手を当てて(気)を入れてくれたと言い張る。
 
「月曜日から、仕事に行くよ!」
と言うので、ビックリ!
横内先生が、無理をしない程度なら良い!と言ったらしい。
「一応点滴には行こうよ!」
となだめる。
 
永井外科には、永井先生への感謝のお手紙と、東京と京都のお土産を持って、挨拶に伺った。
 
夫の実家に、子供達を迎えに行く。
 
11月16日(金曜日)
永井外科に、点滴をしに行く。
永井先生が、「お母さん、何か元気になって良かったね!」
と言ってくれた。
 
 
11月18日(日曜日)
皆で、大分県迄行き、4ヶ月ぶり?の温泉に入ってゆっくりした。
 
 
11月19日(月曜日)
仕事初め。
まだ無理はさせられないので、
母の上司が迎えに来てくれて、
会社で昼御飯を食べて、1時半に迎えに行く。
 
この日、生きて退院したら買ってあげようと思っていたドコモD503の赤を買いに行った。
 
 
11月21日(水曜日)
母が生き生きとしてきた。
もう無理はさせないし、煎じ薬は
何処に行くにも持って行かせ、
横内先生から言われた生活を送る。
 
癌の活動が止まっただけで、まだ、これから先も気を抜けないが、
食事が出来ない時は、早目に点滴に行ったり、仕事でも無理をさせない様、しっかり管理していきたい。
 
 

⑦大好きな母、永井医院との出会い

 
母が入院して直ぐ、叔母に、自分の部屋からある物を持って来てくれ!と言っていた。
 
叔母が、コインの様な物を持って行くと、大事そうに握り締めていた。
 
「それは、何?」と聞くと、東京の横内先生が作った電磁波ブロッカーで、有害電磁波を遮断する物らしい。
 
人体は有害電磁波を浴びると、(気)が停滞する。
(気)の停滞により、色々な病気が出て来る。
 
文明が進歩すればする程、電磁波被爆は増加する。
 
電子レンジ、ホットカーペット等の家電製品の他、携帯電話や、pcを持つ人が多くなり、
この先白血病、脳腫瘍、癌は増え続けるだろう。
 
この電磁波ブロッカーを、船井幸雄先生が持っていて、「東京の横内医院に行けば、末期癌でも怖くないですよ!」と言ったそうで、知り合いが(癌)になったら、教えてあげようと思い、電話番号をメモして帰り、早速に電話して、本とブロッカーを注文して買ったらしい。
 
母が、ブロッカーを手に入れた時の感動を語る。
「普通に体を2つに曲げた時に、手が膝の下迄しか届かないのが、ブロッカーを10分握って、もう一回体を2つに曲げたら、床に手の平がペタッと付いた!
これで癌になっても大丈夫!と涙が出た。」
(母は実父を末期癌で亡くしている)
 
私は手術の時に主治医から、(癌)と思ってくれ!と言われた事が、頭にあったので、
母に横内医院の本がある場所を聞き出し、直ぐ横内医院にFAXした。
 
問診表がFAXで届いたので、先にお金を送り、必要な書類、(CTのコピー、スナップ写真、家で飲んでいる水をペットボトルに入れて)
お金と同じ日に届く様に、ジェット便で出した。
 
横内医院とは、漢方薬と気孔を使い、
環境ホルモンや、発癌性物質を排除した生活を、患者に指導し、
 
(癌)を再発、転移させないとする医院で、
(癌)が喜ぶものを生活から排除させ、食事、生活の在り方を患者に守らせるので、
末期癌生存の医院として知られているのだろう。
 
私は3冊の本をむさぶる様にして読んだ。
 
横内先生は、医者の家系で育ち、自らメスを握ってオペをしていて、
西洋医学での30年の経験も有り、決して、西洋医学を否定してはいない。
検査は、(オーリングテスト)で全ての結果を出す。
 
日本でも(オーリングテスト)をしてくれる医師は、何人も居るが、医療行為としての保険が効かない為、サービスという形でしている医師が多い。
(オーリングテストの事は横内先生の本参照)
 
 
9月2日(日曜日)
ジェット便で横内医院からの荷物が届いた。
 
CTとスナップ写真では、(癌)の活動はあるとの事。
不適食品は、乳製品と、牛肉、玄米。
その日の内に、漢方薬を煎じておき、
 
9月3日(月曜日)
朝6時に持って行き、直ぐ飲ませる。
 
(癌)の活動を止める、ツボに貼るテープを、診断書を見ながら体に貼ってやる。
そして、そのツボをよく揉んだ。
 
 
9月4日(火曜日)
私は、この時告知の事で悩んでいた。
横内医院は、インフォームドコンセント(告知)が前提で治療を進めていく。
 
私は横内先生にお会い出来たら、の告知は治療を進めていく上で必要だろうから、賛成なのだが、
身も心も弱り切っている時の告知は、絶対に嫌だった。
生き抜く希望や、病気と戦う気力を無くす様な告知は、するつもりが無かった。
 
しかし、横内医院の煎じ薬は、告知無しではとても飲めない。
 
生き抜く為には、頑張って飲もう!と強く思わなければ、とても飲める物では無い。
 
 
9月5日(水曜日)
告知を決意した。
でも余命や、普通の(癌)よりも悪性度が高い事は言わずに、
母の肉腫は再発しやすい事、
治療は摘出手術しか無く、
又直ぐにお腹を切って、痛い思いをするのは嫌なら、
頑張って、煎じ薬を飲む様に言った。
(本当は再発した場合、再手術はしない。延命治療もしない。と言われていた。)
 
 
9月6日(木曜日)
一日約800ÇCのノルマがこなせない。
横内医院に電話してみる。
一日分を2日に分けて飲む様に言われる。
 
 
9月7日(金曜日)
毎日、愛情を込めて、煎じ薬を作って行き、横で目を光らせて飲ませる。
母は、見舞い客に「これを飲まないと娘が怒るから」と物凄い顔をして飲んでいたらしい。
 
 
9月15日(土曜日)
二度目の資料を送りたい為、CTのコピーをお願いしたが、断られる。
 
主治医は私を呼び出し、「患者の意思なら平行治療も許すつもりで、紹介状を差上げたのに、返事も書いて来ない失礼な医者は、ヤブ医者に違い無い!どうしても横内医院の治療をしたいなら、今直ぐ退院して欲しい!」と怒った。
 
私はただ、「申し訳ありません」と誤って、スナップ写真と他の資料を横内医院に送った。
 
そして直ぐに、外科医を怒らせたお詫びの手紙を書いて出しておいた。
 
 
9月20日(木曜日)
信じる。と云うことは難しい。
私はこの時、横内医院の事を、絶対に信じよう!という気持ちは、
正直言うと無く、ただ、他に母を治す道が無いのだから、とにかく初診に漕ぎ着ける迄は、信じて飲ませようと思っていた。
 
その後の事は、母が横内先生にお会い出来てから、決めれば良い事なのだから。
 
横内先生の本には、東洋医学には栄養を取る方法が無いので、それは西洋医学に頼るしか無い!
と書いてあった。
 
私は横内医院の治療を応援してくれて、栄養状態が悪くなった時に、さっさと入院して、高カロリー点滴をしてくれる、近くの病院を探そう!と決めた。
 
 
9月27日(木曜日)
家の近所で、毎日傷の付替えをしてくれる病院があれば、退院していいと言われ、
主治医は、近くの総合病院を勧めて来たが、
私は1ヶ月以上も毎日通う医院に、今後の事をお願いしないという様な、勿体無い事をするつもりは無かったので、
自分でとにかく見て回った。
 
決め手は、母の吉方位。
10月2日が大安だったので、母と勝手に、その日に退院する事を決めていた。
 
そして、永井外科の医院長と出会えたのだ!
永井外科は、医院長が、外科と胃腸科、息子さんの副医院長が整形とリューマチを担当している医院である。
玄関前に作られた庭が縁起が良く、ゆったりとした待合室、
受付の方や、ナースも感じが良い!
小さいけど、入院施設もあり、家から歩いても5分位!
 
 
9月28日(金曜日)
早速、外科主治医に、永井外科に通う事、退院を10月2日にしたい事を告げた。
 
外科主治医は、直ぐ永井先生に電話でお願いしてくれて、紹介状も
書いてくれた。
又、今後の事を大至急、内科のドクターと相談していた。
 
 
10月2日(火曜日)
無事退院。叔母が応援に来てくれた。
母と叔母を、家に連れて帰り、そのまま永井外科に紹介状を持って挨拶に伺う。
 
10月3日(水曜日)
初めての永井外科。
先生もナースもとても優しかったと母が嬉しそうに話す。
傷が治る迄、毎日永井外科で付替え、週に一度医療センターに通う。
 
 
10月16日(火曜日)
医療センターの診察の日。
母は、外科主治医に、23日に東京の横内医院に行って良いか?と聞いていた。
「体調が万全じゃ無いのに、駄目だ!」
と言われ、自信を無くし、23日は行かない!と言い出した。
 
これには流石の私も困り果て、先に手を回しておかなかった事を後悔するが、もう遅い。
 
直ぐに横内医院に電話をかけて、キャンセルした。
次、開いてるのは12月28日。
私は不安だった。
無事に横内先生にお会い出来るのか?
それまで母は、大丈夫なのか?
とにかく煎じ薬だけは、口うるさく言って飲ませ続けた。
 
 
10月23日(火曜日)
私は、永井先生にお願いしよう!と決めていた。
朝「先生の開いた時間にお話がしたい。」と電話しておき、
3時頃、永井外科に行った。
 
永井先生は、母の肉腫は西洋医学では治療法が無い事や、再発した場合、再手術出来無い事を、解った上で、キチンと私と向き合って、話を聞いてくれた。
 
「世界で癌に効く抗癌剤は無い。
医者は皆解っている。
それでも使うのは、家族に対する想いからだ。」と言うので、
 
「じゃあ、その想いを、母に対しては、横内医院の治療を応援してくれると云う形でください!」
と深く頭をさげて、お願いした。
 
横内医院の治療内容の事はあえて言わず、「今出来る事は何でもしたいので、それを応援してください!」
と必死の形相で、お願いした。
 
永井先生は、東京の横内医院に行く前に、何日間か、高カロリー点滴をする為に、入院して、帰って来て、体力が落ちていたら、又入院したら良いからね!
頑張って、横内医院に行くように!と母の背中を押してくれると約束してくれた。
 
横内医院に電話をした。
「初診の日迄に、煎じ薬が足りなくなるので、送ってください!」
と言うと、何と!「11月13日に、キャンセルが出たので、どうですか?」と言う!
母に聞きもせずに、「お願いします!」と予約を取り、絶対に11月13日に、横内医院に行こう!と決心した。
 
 
先ず、叔母に電話した。
永井先生に相談したら、点滴入院してでも、行った方が良い!と言われたから、11月13日に、必ず連れて行くから、叔母ちゃんからも母に言って!」
と、まるで、永井先生が熱心に勧めた様な言い方をした。
「先生がそう言うなら!」と、もし母が不安がる様なら、叔母ちゃんも付いていくから!と母に電話してみると言ってくれた。
「お願いよ!絶対に行く気にさせてね!」と、母の説得は、叔母に任せる事にした。
母は、叔母が「付いていく!」と言うと、簡単に行く気になった様だ。
やはり、姉妹愛と云うのは強いのだろう。
それか、私と二人だけで、東京に行く事が不安だったのかもしれない。
 
永井先生に、「11月13日に、初診が決まったので、母の背中を押してください!」と、お願いの手紙を書いて、持って行った。
 
 
10月25日(木曜日)
母が、永井外科に行くと、永井先生は11月13日に横内医院の初診が決まった事を、とても喜んでくれて、「1週間前から毎日高カロリー点滴をして、体力を付けて、東京から帰って来て、又体力が付くまで点滴に通っても良いし、入院しても良いからね!」と、横内医院行きを、強く進めてくれたらしい。
母は、完全に行く気になった様子。
 
 
11月6日(火曜日)
医療センター診察。
傷が綺麗になったので、外科は終わり!
13日(火曜日)は医療センター診察はトンズラさせるつもりだったので、「良かったねー!」と喜ぶ。
 
この日から、毎日永井外科に点滴に通う。
 
横内医院の初診が決まった事を、永井外科の婦長さんも、大変喜んでくれて、「これ、東京に行くときに使ってね!」とプレゼントをくれた。
開けてみると、薄いピンク色の可愛らしいレースが沢山付いたポーチだった。
 
 
この医院に出会えた事に感謝した。
 
 
 

⑥大好きな母の峠

 
 
 
8月14日(火曜日)
ICUには、1日2回、13時30分〜と18時〜と、それぞれ3人づつしか入れない。
祖母を毎回入れてあげようと思ったが、娘のそんな姿を見たくないらしく、「行かない」と言う。
 
8月15日(水曜日)
弟一家が、私の家に泊まり、祖母と叔母が母の家に泊まる。
弟の奥さんが、四人の子供の面倒を見ながら、家事をこなす。
黙々と家事をこなす義妹に、「毎日疲れるやろうけ、弟だけ、置いて家に帰り!」と言うと、
「今回はとむ(弟)の気が済むまで側にいる覚悟で来ました!
姉ちゃんも、とむも出来るだけの事をしてあげて下さい!私はこんな事しか出来ませんが。」と笑顔で言う。
2歳とゼロ歳の息子とみきとえみいの面倒見ながら、結婚式の時に一度しか会ってない叔父と叔母と居るのに。私なら我慢出来ずにさっさと帰ってるのに、妹の、弟への愛情に涙が出た。
 
 
母は呼吸状態が悪く、酸素マスクの濃度が15迄しか無いのに、15のまま下がらない。
「これ以上悪くなる時は人工呼吸器を使う!」と主治医に言われる。
 
「家族の代表者を決めてくれ」と言われる。
「私がなります!」と言うと、「冷静な人が良いです!」とかなり不満気。
主治医は、父を推薦したが、
連絡があって、直ぐに来れるのは、私しか居ない事を告げると、しぶしぶ承知する。
 
8月16日(木曜日)
毎回、母の顔を見た3人の者は全員に質問攻めにあう。
心配なのは、皆同じなのだろう。
 
昼間、浮腫が強くあったと聞いていたので、夜、弟と妹と祖母が入る予定だったので、入れないが付いて行き、外で待つ。
何事も無かった様に3人が出て来たので、安心して帰った。
 
弟が、皆に「ドンドン良くなっているから、皆今日は安心して寝るように!」と、笑顔で言ったので、皆安心して、くつろぎモードに入った。
 
弟が私を外に呼び出す。
今日の主治医の話は、弟が一人で聞いている。
 
母は今、呼吸状態が悪く、浮腫が強く出ていて、今夜が峠だと言う。
持ちこたえないかもしれないから、覚悟してくれ。と!
 
「どうして、それを皆には安心させる事を言うん?」と責め立てた。
 
弟は、「皆が、今夜母が死ぬかもしれないと大騒ぎして、心配して、覚悟を決めてどうなるのか?
それが、良い方向に向かうのか?
母は良くなる!絶対に助かる!奇跡は起きる。と信じないと、頑張ってる母はどうなるのか?」
と怒った。
 
代表者が私になっているから、主治医の話は、毎回私が聞く事になるだろうけど、今後、どんな残酷な告知を受けても、皆には「ドンドン良くなっているから安心して良いよ!」と笑顔で言え!と言う。
 
死を受け入れるのは、蘇生法をしても戻って来なかった時で良い!
 
母が、生きよう!と頑張っているのに、絶対に諦めるな!
皆の「母は、絶対に良くなる!」
と強く信じる事が奇跡を呼ぶのだから。
皆には、絶対に良くなる!と信じさせろ!
 
そして、母の枕元でも、
毎回「良くなって良かったね!」
「顔色も良くなって良かったね!」
と言え!と、私に言付けた。
 
8月19日(土曜日)
酸素レベルが15から9に落ち着く!
このままいけば助かる!
弟の言った通りだ!
 
8月19日(日曜日)
昼間、叔母が行った時、幻覚を見る!と不安がっていた。と言う。
調子は良いので、一般病棟に移れる!との事で、皆で喜んだ。
夜は、私と祖母が二人で行くと、
母の目が血走ってる。
 
ナースに聞くと、『ICU症候群』といって、ICUに長く居ると、意識はしっかりしだしてきてるのに、異様な雰囲気に参っておかしくなる人がいるとの事。
明日の朝1で、一般病棟に移すので、今日は出来るなら長く側に居て、起こしていてくれ!と言われる。
必死に話し掛けるが、トロトロと寝る。目を覚ましては、
「このベットには悪霊が取り付いて居るから、明日の朝1に清めの塩を絶対に持ってこい!」と言う。
 
20時になって、眠くてたまらないと言うので、ナースに、眠り薬を入れて今夜は寝かせてくれ!と言って帰る。
 
8月20日(月曜日)
朝6時に、叔母が起こしに来る。
病院から電話かあり、「娘に、頼んでいる物を持って直ぐに来い!」
と母が言ってると言う。
 
飛び起きて、塩とビニール袋を用意し、叔母と病院に急ぐ。
祖母は、昨夜の様子をみたからか、
病院に行くより、子供達を家で見ている事を選択した。
 
塩とビニール袋を持ってICUに入る!
母は、私の顔を見るなり、「遅い!」
と、私を足蹴りした。
ICUのワゴンに吹き飛んで、ワゴンが凄い音をして倒れた。
 
叔母が、母をなだめる。
よほど怖い幻覚を見たのだろう。
「塩を頭から振りかけろ!」と怒鳴る。
塩を頭から全身にタップリと振りかけて、ベットの四隅に塩をビニールに入れて置くと、ようやく大人しくなる。
 
急に雪が降ってきて、心臓病で亡くなった友達が出て来たらしい。
 
朝の4時から、「娘を呼んでくれ!」
とナースに言っていたのに、「まだ早いから」となだめられて、6時まで待たされたらしい。
 
「そんなに怖い思いをするなら、もっと大騒ぎすれば良かったのに!」
と言いながら、ICUのナースも、怒りが湧く位待たせないで、直ぐ4時に電話してくれたら良かったのに!と思った。
ナースは、ICU症候群の患者を良く見るかもしれないが、なった本人はたまったものじゃない!
 
11時になり、やっと外科病棟に移る。
まだ酸素が必要な為、ボンベのあるナースステーションの前の部屋に入る。
 
痛みが強いからか、家族やナースを怒鳴り散らして大暴れする。
 
買ってきた時計が、24時間光らない事に腹をたてるので、電気屋を探し回ったが、「そんな物は無い!」
と言われ、蛍光針が付いた物を買って持っていく。
 
8月21日(水曜日)
痛み止めの感覚が開かない。
切れて痛みだすと、機嫌が悪くなり手が付けられない。
 
8月22日(水曜日)
毎日、叔母を朝連れて行き、昼過ぎに交代して寝付くまで付き添う。
 
8月23日(木曜日)
部屋を窓際に変えてくれ!と騒ぐので、トイレの前の部屋に移る。
ポータブルトイレが来て、尿の管が取れる。
何度も、尿意を感じるのに、トイレに座ると出ない。
夜遅く、トイレをベットに近付けてから帰る。
この日は、夜中5分おきに、便器に座り眠れなかったらしい。
同室の方は、さぞかし迷惑だっただろう。
 
8月24日(金曜日)
膀胱炎だろうと言われる。
この頃から、母に笑顔が戻って来た。
それが何より嬉しい。
18年前に、書き留めた物を、今まとめているので、何時、弟一家が帰ったか、何時、叔母が帰ったかの記録が無い。
この頃には、私1人で母に付き添っていた。
 
8月25日(土曜日)
尿意はあるのに、便座に座ると出ない。、自覚症状無しに出る便の為、大型ナプキンが手放せない。
バリウムがドンドン出る。
 
8月27日(月曜日)
栄養剤の点滴を24時間注入しながら、痛み止めを7時間おきに使う。背中や肩の強張りを訴えるが、たださすってやる事しか出来ない。
 
8月28日(火曜日)
水を少しづつ飲んでも良い!と言われる。
 
8月29日(水曜日)
重湯開始。
 
私は長女のみきは4歳迄、愛情かけて、育てたが、次女のえみいは、1歳迄しか私の側にベッタリと置いておく事が出来ない事が、気に掛かっていた。
 
でも、えみいとは、時間が経てば、親子のやり直しが出来ると信じていた。
 
今は、どうなるか解らない母の側に居たい。と強く思っていた。
 
夫の両親は、母と同世代で、現役バリバリだった事もあり、甘えていた所もかなりあった。
 
親子なら、時間がかかっても、やり直せると信じていた。
えみいは、夫の両親にひたすら愛され、特に、義父はえみいをとにかくひたすら愛してくれた。
 
それが、わたしの救いだった。
 
何時も夫の両親には感謝していた。
 
 
 

⑤大好きな母の余命

 
 
平成13年9月7日(金曜日)
風があるが蒸し暑い
 
私は今迄『ガン』の事を「転移の可能性があって、死ぬかもしれない怖い病気」としか言いようの無い知識しか持っていなかった。
 
しかし、実母(58歳)が平成13年8月10日(金曜日)に緊急入院。手術を体験し、色々なことを学び、そして考えさせられた。
 
母の病気は、『胃の悪性肉腫』「Gastro intes tinal stromul tumor(maligngnt)」
(ガストロインテスティナル ストローマル トゥモール)
胃の上部に、15cm程の肉腫ができ、肉腫の内部が腐って破裂し、体中に膿が飛び散り、腹膜炎をおこし、緊急手術となり、胃を全部摘出、脾臓をも、摘出するしか無かった奇病で、再発の可能性が、極めて高く、しかも進行が最も速い。
いわいる普通の『ガン』よりもタチの悪い、命の危険を脅かすという意味で、悪質の病気なのだ。
 
母本人の、自覚症状が出たのは、平成13年のお正月頃から。
咳をすると、腹部が痛み、体が疲れやすく、肩こりが激しいという位。
 
平成13年7月24日頃から、赤色、ピンク色のオリモノが出だした為、7月27日(金曜日)北九州市立医療センターにて、子宮癌の検査。
 
7月27日(土曜日)と29日(日曜日)40度の熱が出た為、7月30日(月曜日)に消化器科を受診。
血液検査、エコー、胃カメラで、胃に肉腫がある事が解った。
 
8月3日(金曜日)CTエコー、鼻からバリウムを注入、胃とお尻を調べた。子宮癌は異常なし。
 
8月4日(土曜日)から、血尿が出だした為、8月6日(月曜日)泌尿器科受診。
15センチの胃肉腫が出来ているので、摘出手術を行うと言われ、入院申し込み。
 
8月6日(月曜日)、7日、8日、9日と、胃の痛みが激しく、熱も40度以上が続き、全く食事が取れなかった。
 
母は、バリバリのキャリアウーマン。父よりも年収が高く、
父は勿論の事、
子供が5歳、1歳になった娘の私までもが、
頼りっぱなしのしっかり者で、
いつも強気で前向きで、
体がそんな状態で有りながら
入院する前日迄、仕事に行っていたので、
父も私も、母の体がそんなに悪いとは夢にも思わず、呑気な毎日を送っていた。
 
弟は、結婚して子供が二人出来て、他県に居たので、勿論何も知らなかった。
 
そして弱音を一切吐かなかったので、検査に一度も付き添ってあげた事も無かった。
 
母は、一人でどんなに心細いおもいをした事か、考えてあげる事も出来なかった。
 
8月8日(水曜日)頃から、流石の私も、母の急激な痩せ方と、死相が浮かんだ顔を見て不安になり、
その時に初めて、胃を摘出する事を知った。
母宅の茶碗を洗いながら、今迄の呑気な自分を呪った。
 
8月10日(金曜日)大腸検査をする為、前日は絶食。
ただ虚ろな目をして横になってる母を見て、【どうしてこんなになる迄、放ったらかしにしておいたの?】と自分を責めた。
 
「明日の検査付いていくよ!」と言うと、「タクシーで行くから付いてこなくても良い」と強気で言った。
 
10日の朝、様子を見に行くと、何時も強気の母が「あんた、今日付き添える?」と聞いた。
私は産まれて初めて、母の弱気を見た。
大急ぎで夫の母に子供達を見てくれる様電話をかけた。
しかし往復に掛かる時間で、
母の気持ちが変わる事を恐れた私は、近くの友達に電話をかけて、
友達の家の玄関に子ども達を置いて、急いで母を病院に連れて行く。
 
待たされてる間に、大腸検査のナースに、「こんな状態で検査出来るのか?」「痛みが激しいので痛み止めをしてくれ!」等と怒鳴る。
 
何時もなら「大騒ぎするな!」と文句を言うであろう母が、黙っていた。
消化器科の主治医に、「こんな状態では心配で家に連れて帰れない!何とかしてくれ!」と怒鳴る。
 
予定していた大腸検査も全部こなす事が出来ず、手術に必要な部分のみ、手短に済ませ、そのまま点滴、緊急入院となる。
母が点滴している間に、母の事を
心配していた母の妹に電話する。
母の上司に入院の旨を伝える。
 
叔母は直ぐ電車で来てくれ、叔母の顔を見て、やっと安心したのか、私に「帰っても良い」と言う。
 
入院に必要な物を買い揃え、子供達を迎えに行く。
子供達はもう夕飯もお風呂も済ませて、後は寝るだけにしてくれてた友達には、感謝しか無かった。
 
8月11日(土曜日)母宅に泊まった叔母と二人で、病院に行くと、少し顔色も良く元気になっていた。
 
昨日怒鳴った主治医に呼ばれ、
貧血が酷いので、造血剤を使う事、栄養状態が悪ければ高カロリー点滴をして体調を整えてる事。
手術予定日が8月24日に決まったが、緊急手術が行われるかもしれない事。
体調を整えてからの手術の方が、術後の経過が良く安心な事。
等の説明があった。
 
8月12日(日曜日)叔母を朝から、母の所に送って行き、2時頃、様子を見に行くと、私が着く直前に、母は急に痛みが激しくなり、動けなくなったとの事。
尿の管を付けられ、酸素状態も悪いので、ナースステーションの中の処置室にベットを移される。
 
消化器科の主治医と外科のドクターが、何度も見に来ては、首をかしげる
「細胞検査の結果、悪性では無いので、悪性で肉腫が破裂する事は有り得ない。熱も無いので腹膜炎も考えにくい。」と言う。
 
結局その日は何も解らずに、痛み止めを何度もし、叔母が泊まり込む。
「顔が暑い!」と言うので、ずっと叔母がウチワであおぎ続けた。
 
8月13日(月曜日)
外科病棟に移る。
叔母は寝てない為、家に連れて帰る。
父がずっと付き添って、ウチワで、顔をあおいでた。
CTを撮ることになり、CT室の前で父と二人で待っていた。
「イラン事を口走るな!体力が回復してからの手術の方が安全なのだから」と、私が大騒ぎするのを予測してか、父がそう念をおす。
 
母の外科主治医が、重い顔でCT室から出て来て、
「肉腫が破裂して、腹膜炎を起こしているので、今からお腹を開けます!同意書を書いてください!」
と言った。
 
父が病院に残り、私が叔母を迎えに行く。
父は、どんな想いで一人で同意書を書き、手術に必要な物を買い揃えたのか。
 
15時30分に、手術室に入る。
手術は4時間の予定。
怖くて心細いので、夫を呼び出す。
 
16時に、家族が、手術面談室に呼ばれる。
 
外科主治医が、「お腹を開けてみたら、体の中は膿だらけで、胃は全部摘出するけど、食道と腸が繋がる可能性は、10万分の1です!もうその辺の組織はボロボロになっています。手術を進めると、後戻り出来ません!このまま、お腹を閉じますか?」と聞いてきた。
 
私は、夫に支えられて立っているのがやっとだった。
父と叔母が、「先生にお任せします!少しでも可能性があるのなら、手術を進めて下さい!」
と言い切った!
 
面談室を出てから、(もう母に二度と会えないのかもしれない!)
と思うと涙が止まらなくなった。
(母をこの瞬間に、亡くすかもしれない!)
という現実を、受け入れる事が出来なかった。
何も考る事が出来ず、ただ、(母の笑顔が見たい!母の声が聴きたい!)と祈っていた。
 
叔父と従兄弟も到着して、皆で母を待っていた。
 
弟一家は、熊本で一人暮らししてる祖母を迎えに行く途中、手術が始まった事を知り、祖母、母のお母さん「どうか、婆ちゃんが着くまで無事で居て!」と願っていた。
 
21時頃、手術が終わった。
家族面談室に呼び出され、母の体から摘出した胃と、肉腫と脾臓を見せられる。
 
1歳の次女の頭より大きい肉腫で、中が腐ってドス黒く、悪臭が部屋の中にたちこめた。
 
汗だくの主治医は、「手術後30日以内に亡くなることを術死と言いますが、非常に可能性が高いです。特にこの3日が峠です。」と言った。
 
どうして、母がこんな目に合わなければいけないのか、私達を育てる為に必死に頑張って来て、孫四人の成長をこれから楽しみに生きれるのに!
と思うと涙が止まらなかった。
 
面談室を出ると、夫の両親が子供達を連れて来てくれていた。
久し振りに、二人を抱っこ出来て、嬉しかった。
明日迎えに行くと約束して、夫の実家に連れて帰って貰った。
 
0時近くになって、弟が祖母を連れて到着したので、
先ず、私と父と弟がICUに入る。
 
母は酸素マスクを付けていた。
「頑張ったね!」と泣きながら声をかけると、しっかりと「うん!」と答えた。
父は、「感動的だった!意識があるかは謎だけど、お前の呼びかけに答えた!もし、死ぬことになっても、あんな肉腫を抱えたまま逝かせなくて良かった」と泣いた。
 
ICUには、一回3人までしか入れないので、次に祖母と叔父と叔母が入った。
 
生きて帰ってきた喜びと、峠を乗り越えてくれる事への不安で、なかなか寝付けなかった。
 
 

④宝物、笑衣(えみい)

 
夫は男の子を欲しがっていた。
 
私は元気に生まれてきてくれたらどちらでも良かった。
 
みきは何故か絶対に「妹!」と言い張っていた。
 
妊娠が解り、産婦人科に行くと、先生が「やっと来たかね?」と歓迎してくれた。
 
みきを無事に生んだ安心感からか、今回の妊娠に不安は無かった。
 
先生は、「あんた、今回はもう初めから麻酔にしなさいね!」と笑った。
一応、4ヶ月から、陣痛が来ない薬を飲んだ。
みきは幼稚園の年少さんになっていた。
友達が役員の三役を引き受けたので、私も一緒に幼稚園で仕事をした。
みきは、お友達に「みきちゃんの赤ちゃんおるよ!」と威張って、
私の大きいお腹に向かって、「早く出ておいで!みきちゃんと一緒に遊ぼう!」と毎日一日に何回も声をかけた。
そして私はまたも34キロ太っていた。
 
みきは人見知りが激しく、直ぐ泣くので、名前の字画を変えてアレコレ考えた。
女の子と解ったので、幸せに笑って一生を送れる様に!笑う門には福来たる!で笑いをまとう、と願いを込めて、【笑衣】と決めていた。
 
みきが病弱な子供だった為、えみいの妊娠中は、頑張って嫌いな魚でも何でも食べた。
 
そしてみきに追われる毎日だったので、じっとすることは無かった。
 
定期検診の7月初め、夫に付き添ってもらい、診察を受けた。
先生が「もう子宮口が3センチ開いてるから何時でもいいよ!」と言った。
夫は目をキラキラさせて、「じゃあ7月5日でも良いですか?」と聞いた。
先生は「ちょうど良いかもね!」と笑ってカルテに書いてくれた。
7月5日は、夫の誕生日だった!
 
7月5日、朝から友達が迎えに来てくれた。
私が出産する間、みきを見てくれる。友達の子供も一緒に。
行きがけにセブンイレブンに寄って、子供達のお菓子とか食事とかジュースを買い込んだ。
みきが「オシッコしたい!」と言うのでトイレに連れて行こうとしたら、トイレの入り口でお腹がつかえて入れなかった!
直ぐ友達がみきにオシッコさせてくれた。
 
もう一人の友達も直ぐ駆けつけてくれた。
 
私のお産の間、子供5人と友達は私が入院する部屋で待たされた。
 
でも隣の部屋に帝王切開した人がいて、余りにうるさいので、部屋を変えられた。
何回も交代で私の様子を見に来てくれた。
心強かった。
 
みきを産むとき陣痛の中で麻酔をしたので、脊髄注射の痛みを感じなかった。
だが今回は、お腹を丸めて、脊髄に注射された痛みに涙が出た。
促進剤を使う。
 
夜8時を回っていた。
 
友達は12時間も子供5人をなだめながら、見てくれていた。
 
そろそろテレビ電話室に友達、母、夫、もう眠たくて、ぐずるみきが映し出された。
 
ナースは「いきんで!」と言うが、感覚が無いのでいきめない!
ただ声だけ「ウ~ン!ウ~ン!」と叫んでいた。
「もうすぐよ!」とナースがさすってくれる。
 
そして9時頃、「オギャー!」と、かん高い鳴き声がした!
 
みきはダミ声だったのに、この子は何て女の子らしく可愛らしい声なの?と涙が止まらなかった。
 
先生はみきの時と同じように、へその緒がついたまま、私の手の平に赤ちゃんを置いてくれた。
温かい!この子も温かい!そして重い!
 
先生がテレビに向かって「旦那さんだけ来てください!」と言った!
 
テレビの中には誰も居なかった!
ドタバタとテレビの中にいた皆が入ってきた!
 
先生が「患者も言うこと聞かんけど、家族もやなー!」と呆れていた!もうお祭りムードだった!
 
皆が「えみいちゃん、会いたかったよ!」と泣いていた。
 
夫だけ、手術着を着て、抱っこが許された。
 
みきは2448グラム、髪の毛は禿げてた。
えみいは3116グラム、髪の毛がフサフサしていた。
そして、背中に黒いアザがあった。
 
はえみいがお腹にいるときに、揚げ物をしていて、ちょっと目を離したすきに火が換気扇まであがっていて、火事になりかけた。
 
必死に濡れたバスタオルで消したけどキッチンはボロボロになっていた。
お腹が大きい私には片付けをする事が出来ず、母がしてくれた。
 
妊娠中に火事を起こしたらアザのある子どもが生まれると聞いたことがあったので、心から悔やんで泣いた。
でも顔じゃなくて良かった!と安心もした。
 
処置室のベットで寝かされてる時に、赤ちゃんをオッパイを吸う練習にとナースが連れてきてくれた。
 
ズッシリと重く、骨も太く、髪の毛もフサフサだったえみいが可愛くて、どんな事があっても、この子を一生守って行くと誓った。
 
夫が毎日みきを連れてきてくれた。
みきはもうお姉ちゃん気取りで、ミルクを飲ませたり、まだ首が座ってないえみいを何回も抱くと騒ぐのでヒヤヒヤした。
 
みきの時は食事は部屋で立って食べていた。
だけどえみいの時は座れた事にビックリして、食事も他のお母さん達とレストランで食べる事が出来た。
 
その時に、初めてみきの時はかなり広く切られたこと、肛門まで裂けていた事を知らされた。
 
えみいの時の入院は、オッパイタイムで他のお母さん達と楽しく話したり、沢山の人がお見舞いに来てくれて、あっという間に、退院になった。
 
退院してからは、大変だった。
 
ちょっと目を離すと、みきが首も座ってないえみいをおんぶ紐に入れておんぶや抱っこしたがる。
 
みきが何時もベタベタと触るので、赤ちゃんのえみいは凄く疲れていたのだろう。
 
みきが幼稚園に行くとえみいとの時間が取れると楽しみにしていた私を無視して、グーグー寝ていた。
 
赤ちゃんのえみいは何時もみきに振り回されて、常に必死に寝ていた。
余りにも手がかからないので、拍子抜けしたほど。
 
常にみき中心の生活をしていた為、赤ちゃんのえみいは何時もグーグー寝ていた。
 
そしてカワイイ笑顔を見せて私達を虜にした。
みきと全く違い、赤ちゃんながらに良くニコニコと笑う女の子だった。
名前の通り、笑顔が凄くカワイイ。
 
夫は自分と同じ誕生日のえみいを目の中に入れても痛くない程愛した。
 
 
ニコニコと笑うえみいを、母はたいそう可愛がった。
直ぐ自分の部屋に連れて行って面倒見てくれた。
 
私が「おいで!」と言っても、母にしがみついて私の所には来なかった程、両親はえみいを可愛がった。
 
 

③長女 弥希(みき)

 
阿弥陀様、他神様、御先祖に守られて、希望が叶う(弥希)
 
オッパイが出ない為、針をして貰う。
 
この産婦人科は夜は赤ちゃんを預けてゆっくり寝る事になっているが、何かと理由を付けてみきを部屋に連れ込んだ。
顔を見てると、手を握ってみると、足を触ってみると、止め処なく涙が溢れ、この感動をこれからの育児に迷ったり、行き詰まったりした時に思い出そう。
 
五体満足に生まれてきてくれた。
茉由の分まで幸せにしなくては、私が絶対に守る。
 
夫の両親、弟が来てくれた。母と夫は勿論毎日顔を見に来る。
 
退院の日、先生とナースにみきを抱いてもらい写真を撮った。
 
幸せな毎日。
両親、弟がお風呂を手伝ってくれる。
弟はみきにメロメロだった。
夜泣きをすると、カゴにみきを入れてドライブに行ってくれる。
 
夜泣きで寝れない時、母が絞ったオッパイを持って私を寝せてくれた。
 
欲しい物があると、皆のお財布が緩んだ。
 
そして、プールに行ったりサークルに入ったりして友達が出来始めた。
 
私は『3歳児神話』を信じていて3歳迄はとにかくベッタリと甘やかした。
 
私が風邪を引くと、母が義実家に連れていき、母の仕事が終わると連れて帰ってきてくれた。
 
みきは人見知りが激しく、お客さんの顔を見ては「ギャー」と泣き、私が居ないと「ギャー」と泣いて、布団になかなか寝ない子だった。
おんぶや抱っこが好きで、直ぐ寝てくれるので、抱っこ紐、おんぶ紐、色んな種類を買い漁った。
 
勿論ベビーカーになど乗らず、B型ベビーカーを買う羽目になった。
 
キティちゃんが好きでハーモニーランドは年間パスポートを2年買って通った。
ハーモニーランドは車で2時間かかる。
 
みき「お母さん、明日はキティちゃんに会いに行くから、お弁当作ってみきちゃんのジュース忘れんで、ぜーんぶ車に積んで、みきちゃんを起こさずにベビーカートに入れて、キティちゃんの所に付いたら、みきちゃんを起こしてね!」
と週に一度は言うので、頑張って通った。
 
全てがみき中心の毎日だった。
多分みきは自分は宇宙一番のお姫様と思っていたのだろう。
 
そのうち、みきのお友達に段々赤ちゃんが出来てきた。
私は5歳離すつもりだったが、みきは日々「なんでみきちゃんには赤ちゃんこんの?」と催促する様になった。
「みきがお姉ちゃんとして赤ちゃん可愛がるようになってからね!」と流すと、いきなりお姫様からおねえちゃんに変身して、私にせがんだ。
 
「お姉ちゃんは幼稚園では泣かんのよ。」と諭すと、実母に言いつけに行っていたらしい。
 
自分の意見が通らないと直ぐ両親、弟に言いつけに行っていた。