⑯父の不調

 
 
母の納骨も終わり、父は一人ぼっちになったので、出来るだけ毎日子ども達も連れて様子を見に行く。
 
 
父にそれとなく聞いてみる。
「あんた、癌になったらどうしたい?戦う?」
 
 
「俺は、癌になったら、ママの最期みたいに、ワケワカランくなって死にたい!」と言う。
 
 
「告知は?」と聞くと、
 
「聞きたくない!」
 
と言われた。
 
 
 
それから、職場の友達を家に呼んで暮らしたりとしていた。
 
玄関の電球が切れたので、二人で変えようとしたら、電球が爆発したらしい。
 
 
直ぐに破片を片付けて、夫に電球を変えてもらう。
 
 
 
父は、料理は得意だったが、他の家事が出来ない。
 
 
毎日、私が洗濯物を取りに行き、茶碗を洗い、みきが掃除機をかけてくれていた。
 
 
そして、私は仕事を始めた。
 
それから、子供会の役員もした。
 
 
ずっと、母の事を考えていたら、おかしくなりそうだったからだ。
 
 
 
私は、父の事が嫌いだった。
 
子供の頃、母を叩いていたからだ。
 
 
 
私がまだ独身の頃、父が母の育てた植物をひっくり返して、母と喧嘩をした事があった。
 
その時に私は「貴様、殺してやる!」
と大きな目覚まし時計を持って、
父に向かって行った。
 
 
酔った父は「お前いい度胸やないか!」と殴り合いになった。
 
 
母が泣きながら止めていた。
 
 
私は鼻血を出しただけで、怪我は無かった。
 
 
父は目覚まし時計でぶん殴られたので、アチコチ怪我をしていたらしい。
 
 
母が父の手当てをしていると、
「近所の人から通報されても、俺の怪我は、階段から落ちた事にしてくれ!」と私を庇っていたらしい。
 
 
 
そして何故か、私が結婚してからは、父は大人しくなり、夫婦喧嘩といっても、母が一方的にギャーギャー言うだけで、父は怒らなくなった。
 
 
弟一家も良く帰って来てくれ、顔を見せてくれた。
 
 
 
私とは仲良くないものの、夫を非常に可愛がり、美味しい物を二人で食べに行ったり、
(私は夫にビールの制限をしていたが)
父は夫のご飯を作り、ビールを好きなだけ飲ませた。
 
 
休みの日の前等は、2人で10リットルは飲んでいた。
 
 
 
何を話す訳でもなく、父の焼いた肉を食べながら、ビールを飲み、TVを見て笑っていた。
 
 
 
父が60歳になった頃、弟一家が実家に来た。
 
 
父は、弟に「俺、もう定年していいか?」と聞いた。
 
 
なんでも、肋骨が痛くて、朝4時前から1回も休んだ事なく仕事して、少し疲れたらしい。
 
この頃から、背中を痛がって、私やみきがマッサージさせられていた。
 
 
 
私は、父は職場で嫌われてると思い込んでいた。
 
 
私に、「デブ」等言っていたので、
職場の女の子にもそんな失礼な事を言っているに違いないと思い込んでいた。
 
 
父は、定年の時には
ナイキのスニーカーや、時計、色んな物を貰ってきていた。
 
 
私は、ある日父に「そんなに背中痛いなら整形外科に行こうよ!」と誘い、車に乗せ
そのまま都市高速に乗って
(新小倉病院)小児科の受付をし、みきとえみいの主治医に相談した。
 
待ち時間がかかり、短気な父は怒っていたが、咳が止まらないのが
私は不安で、最も信頼している、子供達の主治医に診てもらった。
 
 
主治医は、父の診察をして、
早速とCT検査とレントゲンと血液検査のオーダーを入れた。
 
 
普通の大きい病院に行けば、
検査の予約だけ取らされ、そのまま帰されるのが不安だったからだ。
 
 
検査を一通り受けて、内科のドクターへと紹介された。
 
 
結果を聞きに行く日にちを予約して帰った。
この時に他の検査の予約もとった。
 
 
 
小児科の主治医の顔が気になっていた私は、自分の家に帰り、
(新小倉)の小児科の主治医に電話をかけた。
 
 
「先生の意見を聞かせて下さい。」
と言った。
 
小児科主治医は
「検査の結果が出てみないとハッキリとは、言えないが、物凄くラッキーだと、結核。」
 
 
 
「ラッキーじゃないとしたら?」
と食い下がる私に、
 
 
「末期の肺癌です。」
と言った。
 
 
頭がクラクラなるのを感じ、
「父に、癌になったら告知しないでくれ!と言われています。
私からも言いますが、内科のドクターに、『告知しないで』と伝えて下さい!」と取り乱さずに言った。
 
 
この小児科主治医には、ずっと母の事を相談しており、子ども達もずっと診てもらっていたので、信頼があった。
そして、何よりこの病院では権力があった。
 
 
普通は初診で、ここまでの検査は出来ない。
 
 
日にちは、記録してないので解らないが、母が亡くなってまだ1年経っていなかった。
 
 
結果を聞きに行く時に、ナースに付き添われ、父は色んな検査をした。
 
 
その間に私だけが、内科の主治医の話を聞いた。
 
 
 
「末期の肺癌です。
両方の肺に癌があって、手術出来る大きさではありません。
ここまでくるには、かなりの痛みがあったはずです。」
と伝えられた。
 
 
「普通の日常生活が出来るのは、後どの位ですか?」と聞くと、
 
 
「2週間でしょう。出来れば直ぐ入院して頂きたい。」と告げられた。
 
 
「弟に相談するので、待ってください。そして、この事は父には言わないでください。」と伝えた。
 
 
父が検査から帰って来るのを待っている間に弟にメールした。
 
 
 
家に帰ってから、弟に電話した。
 
 
父の意思があるので、それまで精一杯 親孝行しよう。
と弟と誓った。
 
 

⑮大好きな母、いなくなる

 

通夜の朝、私は自分の結婚式に母が着ていた紋付きの着物を着たい!と祖母にねだる。
 
 
2人で母宅に帰り、汗だくになって
母の着物箪笥から、一式探して典礼会館に戻る。
 
 
祖母に着せて貰うと、何と入らなかった!
 
汗だくの祖母は溜息を付いて
「少し、痩せなさい!」と怒った。
 
私はションボリして、ワンピースに着替えた。
 
 
会場を見に行くと、沢山のお花がドンドン届いている。
スタッフが、父に順番を聞いていた。
 
とうとうお花が会場に入らなくなり、スタッフが慌てている。
 
 
母の写真は、素敵な笑顔で私を見ていた。
 
お花は、カサブランカが沢山あって、菊は見えなかった。
 
 
お通夜の時間まで、まだ時間があるのに、沢山の人が母にお線香をあげに来てくれていた。
 
 
ヨハネで母に付いてくれていた3人の方も来てくれた。
 
 
 
受け付けがごった返している。
 
 
スタッフが青ざめてバタバタ動いている。
 
 
母が会場に移される。
 
 
受け付けが回らなくて、叔父、私の友達の旦那さん迄入ってくれている。
 
 
ずっと、母の事を応援してくれていた友達の旦那さんだった。
 
友達の顔を見て、泣き崩れた。
 
 
私達、親族は前の席に移される。
 
 
それでもドンドンお花が届き、人も沢山来て、会場のドアは閉めることが出来なくなり、
ドアの後ろまでお花が並び、スタッフが席を作っていた。
 
 
お通夜の挨拶は、私がした。
 
沢山の方に感謝の御礼を伝え、
 
母は、頑張った事、
負けて悔しい事、
ずっと母が大好きだということを
泣きながら伝えた。
 
 
そして、母のビデオを見た。
涙が止まらなかった。
 
 
焼香の時に、沢山の方に声をかけて頂き、泣いた。
 
 
お通夜は、終わり母が部屋に戻された。
 
 
祖母は疲れたのか、叔母達と母宅で寝る。と帰ってしまった。
 
 
 
典礼会館の方が「お嬢様、お話が違います〜」と泣きそうな顔をして私に言ってきた。
 
 
典礼会館では、お花の持ち込みをしておらず、
ドンドン掛かってくる電話を受けながら、
式場も大きい部屋に変え、スタッフも急遽増やし、
賞味期限がある(ドコドコのうどん)をアチコチから掻き集め、
御礼状も増やしと、てんてこまいだった様で、
「明日のお葬式は、一応今日位を目処に、今からまた人を掻き集めます。」
 
 
そして、「我が典礼会館は大きい会社なので、今日を乗り切れた!」
とシッカリ、アピールも忘れなかったので、私は小さく笑った。
 
 
それからも、訪問客は途絶える事もなく、弟の会社関係の方々が沢山来てくれた。
 
 
子ども達にも久しぶりに会えて嬉しかったが、夫の両親が又連れて帰ってくれた。
 
 
弟と義妹は、多分寝ていない。
 
 
 
お葬式の朝、皆で食事をした。
 
 
お葬式。
又、沢山の方々が来てくださり、お葬式の挨拶は弟がした。
 
 
母の上司には、母へのお別れの挨拶をお願いした。
 
何時も詭弁とした上司の姿とは思えない程、
嗚咽しながら最後は声を詰まらせて何を喋っているか解らないほど、
泣きながら母の名前を呼んでいた。
 
 
 
母との最後のお別れ。
 
 
沢山の方々がお手紙やお花を入れてくれた。
 
 
母のお気に入りの洋服、バック、靴、お財布の中には現金も沢山入れた。
 
携帯電話も充電しておき、繋げたまま、入れた。
 
 
献花。
7歳になっていた長女のみきが小さい花束を持っていた。
 
「ママありがとう。」としっかり言って棺桶に花束を置いた。
 
みきはもう解るのか、泣いていた。
 
 
 
出棺の挨拶は、父がした。
 
 
 
霊柩車には、4人乗れるので、
私、父、弟、祖母が乗った。
 
 
出棺のクラクションがただ
切なく響き、霊柩車は走り出した。
 
 
父が初めて声をあげて泣いた。
 
その姿がただ切なく、涙が止まらなかった。
 
 
火葬場に着いた。
 
 
私は、もうこれで母の姿が見れなくなる。と思い、父になかなかボタンを押させなかった。
また叔母に抱き締められて、父の顔を見て頷いた。
 
 
扉が閉まってからも「ママー!置いて行かないでー!」とうずくまって、その場から動けなかった。
 
 
気配がして、ふと、後ろを見ると、なんと友達2人が居た。
友達も泣いていた。
 
私はビックリして、「どうやって来たの?」と聞いていた。
 
 
夫の車に乗り込んで、着いてきてくれたらしい。
 
 
待合室に行くと、なんと沢山の方々が来てくれていた。
 
 
 
『火葬場には、親族しか来ない。』と思い込んで、バスすら用意しなかったのを後悔した。
 
 
 
母の名前が呼ばれ、沢山の方々が集まって来た。
 
 
扉が開かれた時には、もう母の姿はなく、お骨になっていた。
 
 
皆でお骨を壺に入れた。
 
 
 
 
そして、典礼会館に戻り、(初七日)を済ませる。
 
 
 
お花があまりにも多く、沢山の方々に持って帰って貰ったが、
 
 
私達親族もかなりのお花を持って帰った。
 
 
母宅に典礼会館の方が来て、お飾りをしてくれる。
 
 
皆で手を合わせて、お開きとなる。
 
 
私はこの日から、動けなくなった。
 
 
母のお骨の前で眠り、何も食べれなくなった。
 
 
 

⑭大好きな母の笑顔

 

母がずっと眠ってる間に、祖母と写真を選んだ。
慰霊写真だ。
 
祖母が一番好きな母にしようと決めていた。
 
 
父が典礼会館の互助会に入っていた為、相談に行くと、写真をビデオ用に20枚程選んでください。との事なので、それも全て祖母に選んで貰った。
 
 
祖母は戦争中に、母を生んで一人で育てたらしい。
叔母は祖父が戦争から帰ってきてから、生まれたらしい。
 
 
たった一人で育てた娘に先立たれた祖母の気持ちは、はかりしれない。
 
 
ずっと祖母が居てくれたから、私は介護頑張れた。
本当に感謝している。
 
 
急に、母が亡くなると絶対私はパニックになると思い、
祖母が選んでくれた写真を持って打ち合わせに行った。
 
 
先ず、棺桶。
天女の姿が彫ってあるやつを選ぶと、典礼会館の係の人が「お嬢様、これは燃やして無くなるのですよ!」と慌てた。
 
「そんな事、馬鹿な私にだってわかります!」
 
係の人「いや、お値段が張りまして、、、」と冷汗をかいている。
 
言われなくても、値段はキチンと書いてある。
 
「もしかしてカタログにはあるけど、本物は無いの?」と聞くと、
汗をダラダラ流しながら「有ります!」と答える。
 
 
母は菊の花が嫌いだった。
 
「母は、菊が嫌いなので、一切使わないで!」と言うと、
 
「じゃあ何を?」と聞くので、
 
カサブランカが好きだった!沢山入れて!後は、菊以外ならお任せするから。」と言うと、さらにダラダラ汗を流しながら、
「菊が無いと土台が作れないので、土台だけ、使わせて下さい!」と拝まれた。
 
 
「でも、カサブランカを沢山だと、お花代が入ります!」
それは了解してます。
 
 
骨壷は、綺麗な花が描かれている、骨を沢山持って帰れる大きいのにした。
 
 
服は一番良いシルクの着物
 
 
霊柩車は白い大きい外車を選んだ。
 
 
係の人が「あの~、何人位、来られるのですか?」と聞いてきた。
 
 
それは私ではわからないので、
父に電話して、「ママの葬式、何人来る?」と聞いたら「20人位じゃないか?」と言うので、それを伝えた。
 
 
写真の順番だけ、伝えて、帰ろうとすると、
「お返しは、何が良いか?」と聞かれたので、オススメを聞くと
「これは、ドコドコのうどんで〜」
と言うので、「じゃあそれにして!」
と、通夜と葬式のお返しは別の物を選ばないといけない。と言うので
じゃあオススので!と言ったが、何だったが、忘れました!(オイ)
 
 
 
「それより、ここは御礼状は自分で書けないの?」と聞いた。
 
私は書きたかった。
 
「それはしてないのですよ。」
と申し訳無さそうに言う。
 
 
かなり粘ったが、決まりなのだそうで、泣く泣く諦めた。
 
 
 
「火葬場迄のバスは?」と言いかけて、さっき20人と言ったことを思い出して、黙った。
 
 
必ず、必ず、お迎えにあがりますので、
病院の指定してる所に、絶対に電話しないで下さい!
 
 
とパンフレットと、電話番号の所にマッキーでマルを付けて、渡してきた。
 
 
 
ずっと母と仕事をしていた同僚の方が、満潮と引き潮の時間が書いてある物を、3日毎に届けてくれる。
 
 
「この時間は、絶対にお母さんの所から離れちゃ駄目よ!」と解りやすく色のペンで書いてくれる。
 
 
そして、母の携帯から聞いた事ある名前の人達に電話をかけて、もうソロソロ危ない。と知らせる。
 
 
私はペンで塗られてない時間は、アレコレ用事を済ませていたので、叔母から、○○さんが来てくれた。と毎日の様に聞かされた。
 
 
 
これ、20人超えるんじゃない?
と思ったが、多目に用意しておくと聞いていたので、気にしない事にした。
 
 
夜は祖母が居ない時は、必ず母の隣で寝た。
 
 
祖母が居る時でも、ペンで書かれてる時間は病院に居た。
 
 
毎日の様に家族室に、寝泊まりした。
 
 
この時は母は眠っていたので、部屋に行くと会えたし、顔を触ることも出来た。
 
 
母が居なくなるということが、どれだけの恐怖かをまだ私は知らなかった。
 
 
 
母が、亡くなってから、私は地獄を見る。
 
 
6月26日、母が亡くなってみて、ただ、生きていてくれる事が、どれだけ私の支えになっていたかを思い知らされる。
 
 
皆、ひとしきりお別れした後、担当の3人で、体を綺麗にしてくれるとと事で、
 
下のフロアで、主治医と色んな話をした。
 
夜中に亡くなっても、昼までヨハネにいる家族も多いらしい。
 
『そうだ!一応典礼会館には電話しとかないと!』
 
お風呂に入っているので、ゆっくりで良いです。
 
と伝えたにも関わらず、電話して15分後には、玄関に来ていた。
 
 
母を見に行くと、髪の毛をドライヤーで乾かしてもらっている所だった。
 
もう、母の髪の毛をブローする事は無いと思うと、涙が出て来て、止まらなかった。
 
 
母を乗せた車に1人だけ乗れると言うので、祖母の事も考えてあげれずに、乗り込んだ。
 
 
会場に付くまで、今迄我慢してた分を吐き出すかの様に大声で、泣いた。
 
母が、布団に寝かされる。
 
枕元でひとしきり泣いてたら、スタッフが来て、
「打ち合わせ通りで良いですか?」
 
と言っているのが聞こえて、私だけが、「お願いします!」と言った。
 
 
仮通夜がある事を、初めて知って、通夜を伸ばした。
父が一番に言った。
 
「弟一家が来るのを待つ。」
 
朝になったので、横内先生にメールをいれる。
 
「貴方の頑張りは素晴らしかったです。どうか、自信を持ってこれからの人生歩んでください。」と返事が来たので、又泣いた。
 
 
 
「洗礼の儀式はどうされますか?」スタッフが聞きに来た。
 
私は、服と花と骨壷と棺桶を選んだから、後は父の好きにさせてやろうと思った。
 
 
父は「お願いします」と言い、洗礼の儀式の間、ずっと泣いていた。
 
皆が揃ってから、スタッフが棺桶を抱えてきた。
 
 
布団に寝てるのと、棺桶に入れられるのとでは、全く違う。
 
 
私は「ママー!ごめんね!私が殺してごめんね!ママー!嫌ー!!」
 
棺桶に入れるのを邪魔した。
 
 
叔母が、私をギューッと抱きしめてくれて、「自分を責めるのはもう辞めなさい。良く頑張ったね!」
叔母の辛さを思うと、力が抜けた。
 
 
そして、母は棺桶に入れられた。
 
 
私は、母の携帯電話をそっと、母の耳元に置いた。
 
 
その日は、どうやって過ごしたか覚えてない。
 
 
 
夜中に何回も弟の子どもがフスマごと、部屋の外に落ちるのを、弟は何事も無いように、布団に子供を寝かせて、フスマを立てて、そして寝た。
 
 
祖母は、ただビックリしていた。
 
 

⑬大好きな母との別れ

 

平成15年、6月26日、1時30分
 
私達は、最愛の母を亡くした。
 
私が付き添いしておきながら、
 
母は一人で体を冷たくし。
 
死亡する一時間半前にナースに起こして貰うまでは
馬鹿な私は、母がその日死ぬとも思わず寝てしまった。
 
25日に、叔母や、祖母、叔父も来ていて、
先生がまだ大丈夫と言ったので、私を残して皆一旦帰ってしまった。
 
25日の20時前、母が苦しそうにうめいた。
 
その時に足が冷たくなっていた。
 
直ぐ主治医を呼ぶ。
 
「27日迄、持たないかもしれない」
と言われていたのに。
 
直ぐに、祖母、叔母に、連絡すべきだったのに。
 
12時過ぎたら、26日になるのに。
 
そんな事は思い付かず、寝てしまった。
 
馬鹿な娘が横で寝てる間、
 
母は一人ぼっちで、身体を冷たくしていき、
死の方向へと向かうと言う事が、
どんなに寂しくどんなに心細かっただろう。
 
ずっと起きていて、冷たくなっていく身体をずっとさすってあげれば良かった。
 
大丈夫よ。私はここにいるよ。
 
と安心させてあげれば良かった。
 
私がナースに起こされた時は
 
もう手の温もりも無く
 
最後のがんばりのがく式呼吸をしていた。
 
私はパニックになり、とにかく皆を呼ばなければ!
 
ということしか頭に無く
 
母の冷たくなった手を握り締め
 
電話をかけた。
 
祖母と叔母だけは呼びたかった。
 
だけど、ただ母だけを見て
 
母から産まれて来てから
 
ずっと大好きだった事、
 
母の娘に生まれて来て良かった事
 
母の娘で嬉しかった事。
 
沢山伝えたい事あったから
 
抱きしめて、伝えてあげればよかった。
 
大好きよ。ありがとう。
 
だけ、言いながら
 
他の言葉は見つからなかった
 
父と夫だけ間に合った
 
ただひたすら、冷たくなっていく
 
母を抱きしめて、大好きよ
 
ありがとうと泣きながら言っていた。
 
母の呼吸が止まり
 
少したって、叔母と祖母がついた。
 
叔母は、「ねーちゃん何で待っててくれんやったん?」とは母に抱きいてた。
 
祖母は言葉が無くただ
 
母を抱きしめて静かに泣いていた
 
 
 
母は、今回は2回目の入院だった
 
絶え間ない痛みと、ストレスで
 
ずっと側に居て、介護している祖母と私でさえ、
どうしてあげることもできなかった。
 
祖母は、人の家に泊まれない人だった。
 
一度家に帰りたい。と言っていた
 
そんなとき、祖母がキッチンにきて
 
ママが、あんたの身体の事を
 
心配して、入院を決めたらしい
 
ママがあんたを思うなら
 
私はママを思わないと
 
大切な娘なのだから。
 
と此処に居る覚悟をしたみたい
 
入院が決まって家を出る時間になっても、母はなかなか立ち上がろうとはしなかった。
 
いつもの母と違い
 
いつまでもぐずぐずとしていた。
 
 
 
入院しても日に日に弱っていく
 
「ママはこのまま死ぬん?」
と気弱になっている。
 
「ただ、このまま弱って死ぬのを待つなら、リスク背負ってでも意識落として薬入れよう。」
 
言いながら涙が止まらない。
 
私はどこまで母を苦しめるのか。
 
母は、「これで死んだら事故死なんよ!」と言った。
 
事故死なんていわずとも
 
母の頑張りは皆認めてるのに
 
頑張れなかったから死んだ。
 
と思われたくないという気持ちが強い様子
 
そんな事誰にも思わせない。
 
母の頑張りは私の誇りだった。
 
本当にこれが最後の賭けになるだろうから、
 
弟一家に応援を頼み、
 
私が24時間付き添える体制を作った。
 
母は、意識を落とす前に、
 
私と弟に「これで死んだら事故死なんよ。」と2回言った。
 
 
薬をシリンジに入れて、少しづつ
 
入れていった。
 
ずっと寝ないで、座らないで
 
丁寧に入れた。
 
四日目に、母の呼吸がおかしい事に気づき、直ぐナースを呼び、
 
管も抜かれて、肺の痰や薬を吸引され、母は酷く苦しがり、
 
それを見て、自分を責めた。
 
どうしても、もう1度母の笑顔が見たかった。
 
肺炎を起こし、後2日の命と言われたのに、母は1度蘇った。
 
自分が何処に居るのか解らずに、
 
自分が病気だということも忘れて
 
夫である父の顔も忘れて蘇った。
 
それからの母の姿はただ悲しく
 
寂しいと言っては良く泣いた。
 
私は、もうこの時から、母を生きる道から、楽にさせてあげる事しか
考えなくなってしまった。
 
それくらい、この時の母の姿は
 
ただ、ただ哀しさとせつなさだけしか無かった。
 
点滴が漏れて、もう指す場所が
 
無くなった時、全ての延命処置を拒否した。
 
そのかわり、そうする事で
母が味わうかもしれない、哀しみや、苦痛を感じぬ様、意識レベルも下げた。
母に、哀しみや死への恐怖を感じさせる事を決して許さなかった。
 
それだけは絶対に許さなかった。
 
そして、母は死ぬまで眠り続けた。
 
母の命は私が選択した。
 
私の選択を受け入れてくれたか
 
母に聞きたい。
 
一緒に戦ってきて、負けて悔しい。
 
母の無念が私の無念だ。
 
母に最期これで良かったのか
 
聞きたい。母に会いたい
 
 

⑫大好きな母、最後の賭け

 

 

 

私は、母と旅行に行きたかった。
 
母は、日田の豆町に行きたいと言う。
 
ダスキンで車椅子を借りる。
 
叔母も誘った。
 
大きいワゴン車に、車椅子と、母が横になれるよう、布団をひいた。
 
車椅子を押して、街を見て回り、小物を沢山買った。
 
母は、この時にはもう何も食べなかった。
 
私と叔母だけ、可愛い食事をしたが、見せて!と言うだけで、一口も食べなかった。
 
ここの温泉は、良かった。
 
慣れた手付きで、ヘパリンロックしてると、
叔母は私は息子しかおらんけ、こんな想い出は作れんな!
と母を笑わかしてくれた。
 
ゆっくりと温泉に入り、ゆっくりとした時間を過ごした。
 
私は、母を失うのが嫌だった。
 
仕事みたいに、やり甲斐は無いかもしれないが、私の子供達を
見てくれるなら、私がバリバリ働く!
 
横内の治療を理解してくれてる新新院長の所で、もう1度頑張って貰うつもりだった。
 
密かに、横内先生にも相談した。
鼻からチューブ入れて、薬を流そうと思っていた。
何と、横内先生は、「何かあったら電話して!」と自宅の電話番号を教えてくれた。
 
 
でもこんなに母を苦しめて、頑張らせて、ただ苦しい思いだけで、失ったら、私は立ち直れないだろうな。と覚悟もしていた。
 
 
新院長は、横内先生は、この薬は坑ウイルス剤として出してるよ!と母が引き出しに直しこんでる薬も調べてくれた。
 
 
 
楽しい旅行中は、横内医院の事には何も触れず、
帰って来てしばらくして、1度だけチャンス頂戴!と母にお願いした。
 
私が余りにも泣いてお願いするので、母は、何も言わなかった。
 
鼻にチューブを指すというのは、もう母には限界だった。
 
点滴を、変えながら
薬を鼻から流す。3日もたってないが、もう母には限界が来た。
 
部屋にボーダブルトイレを置いてたのだか、その日から母は黒い便を大量に出した。
 
私はしつこかった。
 
もう1度、横内先生に、会いたかった。
 
この頃の、母には、もう意思等残って無かったのかもしれない。
 
この地獄の3日のお陰で、母は、何とか歩ける様になった。
 
直ぐ、横内医院の予約を入れる。
 
新幹線にある、ベットに寝て、何故か、緑のゲロを吐きながら、
 
横内医院に辿り着いた。
 
何回も、母のオーリング、長女のオーリング、自分のオーリング見て来て、気が付いてた事があった。
 
 
横内先生は、1番に、腕?か首か何処か解らないけど、そこを見る。
 
そして、母が最後に横内医院に行った日、ずっと閉じていた、私はまだ生きる!と云う部分が、閉じなかったのを見た。
 
そして、横内先生は、そのままオーリングテストを止めて、「井上さん、今一番何が辛い?」と聞いた。
 
母は泣きながら「娘が漢方薬を飲めと睨むのが辛い。」とずっと、ずっと泣いていた。
 
横内先生がこの後、何と言ったか覚えてない。
 
そして、静かに帰った。
 
私は鬱が酷くなり、新幹線の中で睡眠薬を飲んで、寝た。
 
 

⑪大好きな母の精神状態

 

 
母の職場が傾いているらしく、
 
母の上司は、
社長に「自分は自殺するから、出た保険金で何とか会社を経ち直してくれ。」
と託していた。
 
上司は、「保険金が出た所で、経ち直せれるかは、解らない。」
 
そして、もうこの会社は駄目だ!
共倒れになるなら、今退職金を貰って辞めた方が良いのでは?
 
母の上司から、この話しが出るようになってから、母は又食事を吐く様になる。
 
そして、横内医院の薬が飲めなくなった。
 
私は、昔かかりつけだった内科の院長が引退するので、県外にいた、消化器科内科の長男を呼び戻すから、会ってみてくれ!と言われ、長男の時期院長に、母のこれまでのいきさつを、お話に伺った。
 
何と、横内先生の事も、治療内容も理解している医者だった。
 
私は直ぐ、自宅で24時間点滴出来るかを、相談してみた。
 
ここは田舎で、医者の考えも古く、指導は医療センターで受けないといけない事に、少しがっかりもしたが、週に1回チューブを変えるのは、その新院長が、往診してくれると言うので、お願いした。
 
さっさと母を医療センターに入院させて、首から針を指してもらい、
今は知らないが、昔は[ヘパリンロック]をして、お風呂に入れて、
又点滴を流す。と言う訓練を受けた。
 
「これが出来ないと、帰れませんよ」と嫌味をいうナースもいたが、私は直ぐ覚えた。
 
あまりの手際の良さに、「あのー、もしかしてナースだったんですか?」と言われてしまった。
「只の美容師です!」とつい言い返してしまった。
 
母は直ぐ退院出来た。
 
点滴をぶら下げて、まだ仕事に行こうとする。
辞めるのも引き継ぎがあるからだ。
 
社長は、自分の二人の妹に、母の引き継ぎをさせたらしい。
 
横内医院の薬を、飲めなくなった為、熊本から祖母が、応援に来た。
 
寝込む事も多くなり、社長の妹さんは、家まで仕事を習いに来てくれた。
 
横内医院の薬が飲めなくなると、ドンドン体調が悪くなった。
 
そして、私と叔母を呼び、
「もう疲れた。もう楽になったら駄目?」と泣いた。
 
私は生きて欲しかった。
でも母の人生、私にはどうする事も出来なかった。
 
その頃、独立型ホスピスを見つけた。
ヨハネ病院。
 
 
直ぐに行ってみて、本を買った。
 
医師が白衣を来てない。
ナースがアルプスのハイジの様なドレスを着ていた。
 
このホスピスには、「ショートスティ]という、お泊りがあるのが魅力だった。
 
 
母は、病気に疲れている。
私は介護に疲れていた。
 
 
この頃から心療内科には通っていた。
 
ホスピスと聞くと、もう個々で死ぬんだ。
 
と思う人が多いが、
ここは、患者にも、家族にも一旦リフレッシュ出来ると言うのが、気に入って、
 
 
母を見学に誘ってみた。
 
 
私が、夜お酒を飲みだしたから、母は気になってたらしい。
 
「4日位、来てみようかな!」
 
と言うので、祖母、伯母が付き添う!と言い出した。
 
 
私が泊まりたいなら、泊まれる部屋もあった。
 
ナース1人と、ヘルパー2人が、1人の患者さんに付く。
 
 
来客が、来ると家族は、下の清潔で
飲み物等出せる場所で、来客をもてなせる。
 
色んな器具が置いてある。
 
私はその中で、酸素カプセルみたいなのに、入るのが好きだった。
 
 
レーニングルームもある。
 
ホントにお城みたいな所で、皆リフレッシュ出来た。
 
 
母は、鬱になっていた。
 
上司が、退職の手続きしてくれて、
 
母は、退職した。
 
それは母の唯一の生きる希望を、無くした日だった。
 
 
 

⑩大好きな母の不調

 

 

 

11月10日
この頃から、母は食べた物を吐く様になっていた。
 
永井先生に相談すると、手術した医療センターで見てもらった方が良いと言うので、そのまま行った。
 
医療センターは、母を助ける気が無いのに、何故検査ばかりするのだろう。
 
この時、無理矢理にでも、会社を休ませて、横内医院に行けば、道は違っていただろう。
 
横内先生の、「癌の活動がない。」
と言うのは、癌の元になる遺伝子
「K.ras.fo8などの」
異常が無い。と言う事を意味し、
癌の後、腫瘍はそのまま残っていても、癌の活動腫瘍には、癌の異常増殖や転移の危険の失われた、
心配の無いただの「ぬけがら」の状態の物が、体の中にある事を云う。
 
例えば、「ぬけがら」に、ウイルスや、細菌などの、病原体の感染があると、「ぬけがら」のサイズが、大きくなったり、あたかも転移の様に、他の臓器組織、リンパ節が腫れたり、腹水や肺水が貯まったりする。
 
この様な状態でも、病原体が消えて無くなると、腫瘍も小さくなり、他の症状も無くなる。
 
これは、横内先生の本にも沢山の症例もあり、「ぬけがら」を癌の再発、転移だと、決めつけて、患者を脅す。
この時に、余命迄宣告する。
 
私は、これが怖かった。
 
内科主治医、「再発」と断言し、もう物が食べれなくなるから、24時間高カロリーを点滴をするべきだ。と言った。
私は主治医に、「この事は母には言わないでください!」とお願いした。
 
治す気もない癖に、定期検診に来させ、「ハイ!腫瘍があったね!もう直ぐ死ぬね!」と患者に言う神経が解らない。
 
横内先生に直ぐ電話をかける。
 
今伝えられた主治医の話を大慌てで、吃りながら說明する私に、
「再発なんて、そんな有り得ないよ!でも、コブや、腫瘍が、出てきた理由が必ずあるからね!その原因を取ってあげないと、お母さんがキツイからね!」と呑気に言う。
 
「でも母は衰弱してるのです!心配だから、見てください!」
 
と必死に言うと、「来れる?来れるなら、一番良いよ!癌じゃ無い証拠を見せてあげるよ!」
 
と、無理矢理、11月21日(木曜日)
予約を押し込んでくれた。
 
母が会社を休まない!と言い張るので、母の会社の近くにある、
のだ内科の先生にお会いして、毎日、点滴をして貰う。
 
 
11月21日(木曜日)
横内医院診察の日、母は衰弱して弱々しい。
 
早速(オーリングテスト)に入る。
何かに反応したのか、「あ!来て良かったね!」と言った。
 
続いて、外国人のドクターが入ってきて、そのドクターは半レーザーを使わず、自分の手の平を母の体中に添わせた。
カタコトの日本語で、「体のどの部分にも癌はありません!」と言った。
 
体のアチコチに、【気】のテープを貼られ、説明に入る。
 
A2ウイルスが、体に入っている。
 
「これを殺さなければ、お母さんキツイからね!」
横内先生は、
「医療センター、もう通うのやめたら?」と言う。
私もそう思った。
 
 
医療センターの主治医は、癌が再発したので、もうご飯が食べれないから、入院して、24時間の点滴をする!と言った。
 
でも横内先生は、お母さん、栗が大好きだね!もし、癌の再発だったら、栗もバクバク食べれないよね?
 
母は、私を睨んだ。
「私、言ってない!言ってない!」
何で、横内先生は母が私に栗を大量に買ってこさせ、毎日食べてるのを知ってるんだろう?
 
そういえば、栗は、吐かない。
 
そして母は、横内先生と外国人のドクターからも、【気】を入れてもらった様で、行きは又車椅子で来たのに、帰りはいきなり元気になり、飛騨高山に行くと言い出した。
 
新幹線の中、高山までの電車の中、アレコレ好きなモノを買って、沢山食べた。
 
高山駅の近くのホテルを取り、
豪華な食事も楽しんだ。
 
次の日は、白川郷迄バスで行き、又そこでも沢山食べた。
 
私だけ、疲れ果て、白川郷には流石に付いて行けなくて、ホテルでガンガン寝た。