⑫大好きな母、最後の賭け

 

 

 

私は、母と旅行に行きたかった。
 
母は、日田の豆町に行きたいと言う。
 
ダスキンで車椅子を借りる。
 
叔母も誘った。
 
大きいワゴン車に、車椅子と、母が横になれるよう、布団をひいた。
 
車椅子を押して、街を見て回り、小物を沢山買った。
 
母は、この時にはもう何も食べなかった。
 
私と叔母だけ、可愛い食事をしたが、見せて!と言うだけで、一口も食べなかった。
 
ここの温泉は、良かった。
 
慣れた手付きで、ヘパリンロックしてると、
叔母は私は息子しかおらんけ、こんな想い出は作れんな!
と母を笑わかしてくれた。
 
ゆっくりと温泉に入り、ゆっくりとした時間を過ごした。
 
私は、母を失うのが嫌だった。
 
仕事みたいに、やり甲斐は無いかもしれないが、私の子供達を
見てくれるなら、私がバリバリ働く!
 
横内の治療を理解してくれてる新新院長の所で、もう1度頑張って貰うつもりだった。
 
密かに、横内先生にも相談した。
鼻からチューブ入れて、薬を流そうと思っていた。
何と、横内先生は、「何かあったら電話して!」と自宅の電話番号を教えてくれた。
 
 
でもこんなに母を苦しめて、頑張らせて、ただ苦しい思いだけで、失ったら、私は立ち直れないだろうな。と覚悟もしていた。
 
 
新院長は、横内先生は、この薬は坑ウイルス剤として出してるよ!と母が引き出しに直しこんでる薬も調べてくれた。
 
 
 
楽しい旅行中は、横内医院の事には何も触れず、
帰って来てしばらくして、1度だけチャンス頂戴!と母にお願いした。
 
私が余りにも泣いてお願いするので、母は、何も言わなかった。
 
鼻にチューブを指すというのは、もう母には限界だった。
 
点滴を、変えながら
薬を鼻から流す。3日もたってないが、もう母には限界が来た。
 
部屋にボーダブルトイレを置いてたのだか、その日から母は黒い便を大量に出した。
 
私はしつこかった。
 
もう1度、横内先生に、会いたかった。
 
この頃の、母には、もう意思等残って無かったのかもしれない。
 
この地獄の3日のお陰で、母は、何とか歩ける様になった。
 
直ぐ、横内医院の予約を入れる。
 
新幹線にある、ベットに寝て、何故か、緑のゲロを吐きながら、
 
横内医院に辿り着いた。
 
何回も、母のオーリング、長女のオーリング、自分のオーリング見て来て、気が付いてた事があった。
 
 
横内先生は、1番に、腕?か首か何処か解らないけど、そこを見る。
 
そして、母が最後に横内医院に行った日、ずっと閉じていた、私はまだ生きる!と云う部分が、閉じなかったのを見た。
 
そして、横内先生は、そのままオーリングテストを止めて、「井上さん、今一番何が辛い?」と聞いた。
 
母は泣きながら「娘が漢方薬を飲めと睨むのが辛い。」とずっと、ずっと泣いていた。
 
横内先生がこの後、何と言ったか覚えてない。
 
そして、静かに帰った。
 
私は鬱が酷くなり、新幹線の中で睡眠薬を飲んで、寝た。