⑥大好きな母の峠

 
 
 
8月14日(火曜日)
ICUには、1日2回、13時30分〜と18時〜と、それぞれ3人づつしか入れない。
祖母を毎回入れてあげようと思ったが、娘のそんな姿を見たくないらしく、「行かない」と言う。
 
8月15日(水曜日)
弟一家が、私の家に泊まり、祖母と叔母が母の家に泊まる。
弟の奥さんが、四人の子供の面倒を見ながら、家事をこなす。
黙々と家事をこなす義妹に、「毎日疲れるやろうけ、弟だけ、置いて家に帰り!」と言うと、
「今回はとむ(弟)の気が済むまで側にいる覚悟で来ました!
姉ちゃんも、とむも出来るだけの事をしてあげて下さい!私はこんな事しか出来ませんが。」と笑顔で言う。
2歳とゼロ歳の息子とみきとえみいの面倒見ながら、結婚式の時に一度しか会ってない叔父と叔母と居るのに。私なら我慢出来ずにさっさと帰ってるのに、妹の、弟への愛情に涙が出た。
 
 
母は呼吸状態が悪く、酸素マスクの濃度が15迄しか無いのに、15のまま下がらない。
「これ以上悪くなる時は人工呼吸器を使う!」と主治医に言われる。
 
「家族の代表者を決めてくれ」と言われる。
「私がなります!」と言うと、「冷静な人が良いです!」とかなり不満気。
主治医は、父を推薦したが、
連絡があって、直ぐに来れるのは、私しか居ない事を告げると、しぶしぶ承知する。
 
8月16日(木曜日)
毎回、母の顔を見た3人の者は全員に質問攻めにあう。
心配なのは、皆同じなのだろう。
 
昼間、浮腫が強くあったと聞いていたので、夜、弟と妹と祖母が入る予定だったので、入れないが付いて行き、外で待つ。
何事も無かった様に3人が出て来たので、安心して帰った。
 
弟が、皆に「ドンドン良くなっているから、皆今日は安心して寝るように!」と、笑顔で言ったので、皆安心して、くつろぎモードに入った。
 
弟が私を外に呼び出す。
今日の主治医の話は、弟が一人で聞いている。
 
母は今、呼吸状態が悪く、浮腫が強く出ていて、今夜が峠だと言う。
持ちこたえないかもしれないから、覚悟してくれ。と!
 
「どうして、それを皆には安心させる事を言うん?」と責め立てた。
 
弟は、「皆が、今夜母が死ぬかもしれないと大騒ぎして、心配して、覚悟を決めてどうなるのか?
それが、良い方向に向かうのか?
母は良くなる!絶対に助かる!奇跡は起きる。と信じないと、頑張ってる母はどうなるのか?」
と怒った。
 
代表者が私になっているから、主治医の話は、毎回私が聞く事になるだろうけど、今後、どんな残酷な告知を受けても、皆には「ドンドン良くなっているから安心して良いよ!」と笑顔で言え!と言う。
 
死を受け入れるのは、蘇生法をしても戻って来なかった時で良い!
 
母が、生きよう!と頑張っているのに、絶対に諦めるな!
皆の「母は、絶対に良くなる!」
と強く信じる事が奇跡を呼ぶのだから。
皆には、絶対に良くなる!と信じさせろ!
 
そして、母の枕元でも、
毎回「良くなって良かったね!」
「顔色も良くなって良かったね!」
と言え!と、私に言付けた。
 
8月19日(土曜日)
酸素レベルが15から9に落ち着く!
このままいけば助かる!
弟の言った通りだ!
 
8月19日(日曜日)
昼間、叔母が行った時、幻覚を見る!と不安がっていた。と言う。
調子は良いので、一般病棟に移れる!との事で、皆で喜んだ。
夜は、私と祖母が二人で行くと、
母の目が血走ってる。
 
ナースに聞くと、『ICU症候群』といって、ICUに長く居ると、意識はしっかりしだしてきてるのに、異様な雰囲気に参っておかしくなる人がいるとの事。
明日の朝1で、一般病棟に移すので、今日は出来るなら長く側に居て、起こしていてくれ!と言われる。
必死に話し掛けるが、トロトロと寝る。目を覚ましては、
「このベットには悪霊が取り付いて居るから、明日の朝1に清めの塩を絶対に持ってこい!」と言う。
 
20時になって、眠くてたまらないと言うので、ナースに、眠り薬を入れて今夜は寝かせてくれ!と言って帰る。
 
8月20日(月曜日)
朝6時に、叔母が起こしに来る。
病院から電話かあり、「娘に、頼んでいる物を持って直ぐに来い!」
と母が言ってると言う。
 
飛び起きて、塩とビニール袋を用意し、叔母と病院に急ぐ。
祖母は、昨夜の様子をみたからか、
病院に行くより、子供達を家で見ている事を選択した。
 
塩とビニール袋を持ってICUに入る!
母は、私の顔を見るなり、「遅い!」
と、私を足蹴りした。
ICUのワゴンに吹き飛んで、ワゴンが凄い音をして倒れた。
 
叔母が、母をなだめる。
よほど怖い幻覚を見たのだろう。
「塩を頭から振りかけろ!」と怒鳴る。
塩を頭から全身にタップリと振りかけて、ベットの四隅に塩をビニールに入れて置くと、ようやく大人しくなる。
 
急に雪が降ってきて、心臓病で亡くなった友達が出て来たらしい。
 
朝の4時から、「娘を呼んでくれ!」
とナースに言っていたのに、「まだ早いから」となだめられて、6時まで待たされたらしい。
 
「そんなに怖い思いをするなら、もっと大騒ぎすれば良かったのに!」
と言いながら、ICUのナースも、怒りが湧く位待たせないで、直ぐ4時に電話してくれたら良かったのに!と思った。
ナースは、ICU症候群の患者を良く見るかもしれないが、なった本人はたまったものじゃない!
 
11時になり、やっと外科病棟に移る。
まだ酸素が必要な為、ボンベのあるナースステーションの前の部屋に入る。
 
痛みが強いからか、家族やナースを怒鳴り散らして大暴れする。
 
買ってきた時計が、24時間光らない事に腹をたてるので、電気屋を探し回ったが、「そんな物は無い!」
と言われ、蛍光針が付いた物を買って持っていく。
 
8月21日(水曜日)
痛み止めの感覚が開かない。
切れて痛みだすと、機嫌が悪くなり手が付けられない。
 
8月22日(水曜日)
毎日、叔母を朝連れて行き、昼過ぎに交代して寝付くまで付き添う。
 
8月23日(木曜日)
部屋を窓際に変えてくれ!と騒ぐので、トイレの前の部屋に移る。
ポータブルトイレが来て、尿の管が取れる。
何度も、尿意を感じるのに、トイレに座ると出ない。
夜遅く、トイレをベットに近付けてから帰る。
この日は、夜中5分おきに、便器に座り眠れなかったらしい。
同室の方は、さぞかし迷惑だっただろう。
 
8月24日(金曜日)
膀胱炎だろうと言われる。
この頃から、母に笑顔が戻って来た。
それが何より嬉しい。
18年前に、書き留めた物を、今まとめているので、何時、弟一家が帰ったか、何時、叔母が帰ったかの記録が無い。
この頃には、私1人で母に付き添っていた。
 
8月25日(土曜日)
尿意はあるのに、便座に座ると出ない。、自覚症状無しに出る便の為、大型ナプキンが手放せない。
バリウムがドンドン出る。
 
8月27日(月曜日)
栄養剤の点滴を24時間注入しながら、痛み止めを7時間おきに使う。背中や肩の強張りを訴えるが、たださすってやる事しか出来ない。
 
8月28日(火曜日)
水を少しづつ飲んでも良い!と言われる。
 
8月29日(水曜日)
重湯開始。
 
私は長女のみきは4歳迄、愛情かけて、育てたが、次女のえみいは、1歳迄しか私の側にベッタリと置いておく事が出来ない事が、気に掛かっていた。
 
でも、えみいとは、時間が経てば、親子のやり直しが出来ると信じていた。
 
今は、どうなるか解らない母の側に居たい。と強く思っていた。
 
夫の両親は、母と同世代で、現役バリバリだった事もあり、甘えていた所もかなりあった。
 
親子なら、時間がかかっても、やり直せると信じていた。
えみいは、夫の両親にひたすら愛され、特に、義父はえみいをとにかくひたすら愛してくれた。
 
それが、わたしの救いだった。
 
何時も夫の両親には感謝していた。