⑤大好きな母の余命

 
 
平成13年9月7日(金曜日)
風があるが蒸し暑い
 
私は今迄『ガン』の事を「転移の可能性があって、死ぬかもしれない怖い病気」としか言いようの無い知識しか持っていなかった。
 
しかし、実母(58歳)が平成13年8月10日(金曜日)に緊急入院。手術を体験し、色々なことを学び、そして考えさせられた。
 
母の病気は、『胃の悪性肉腫』「Gastro intes tinal stromul tumor(maligngnt)」
(ガストロインテスティナル ストローマル トゥモール)
胃の上部に、15cm程の肉腫ができ、肉腫の内部が腐って破裂し、体中に膿が飛び散り、腹膜炎をおこし、緊急手術となり、胃を全部摘出、脾臓をも、摘出するしか無かった奇病で、再発の可能性が、極めて高く、しかも進行が最も速い。
いわいる普通の『ガン』よりもタチの悪い、命の危険を脅かすという意味で、悪質の病気なのだ。
 
母本人の、自覚症状が出たのは、平成13年のお正月頃から。
咳をすると、腹部が痛み、体が疲れやすく、肩こりが激しいという位。
 
平成13年7月24日頃から、赤色、ピンク色のオリモノが出だした為、7月27日(金曜日)北九州市立医療センターにて、子宮癌の検査。
 
7月27日(土曜日)と29日(日曜日)40度の熱が出た為、7月30日(月曜日)に消化器科を受診。
血液検査、エコー、胃カメラで、胃に肉腫がある事が解った。
 
8月3日(金曜日)CTエコー、鼻からバリウムを注入、胃とお尻を調べた。子宮癌は異常なし。
 
8月4日(土曜日)から、血尿が出だした為、8月6日(月曜日)泌尿器科受診。
15センチの胃肉腫が出来ているので、摘出手術を行うと言われ、入院申し込み。
 
8月6日(月曜日)、7日、8日、9日と、胃の痛みが激しく、熱も40度以上が続き、全く食事が取れなかった。
 
母は、バリバリのキャリアウーマン。父よりも年収が高く、
父は勿論の事、
子供が5歳、1歳になった娘の私までもが、
頼りっぱなしのしっかり者で、
いつも強気で前向きで、
体がそんな状態で有りながら
入院する前日迄、仕事に行っていたので、
父も私も、母の体がそんなに悪いとは夢にも思わず、呑気な毎日を送っていた。
 
弟は、結婚して子供が二人出来て、他県に居たので、勿論何も知らなかった。
 
そして弱音を一切吐かなかったので、検査に一度も付き添ってあげた事も無かった。
 
母は、一人でどんなに心細いおもいをした事か、考えてあげる事も出来なかった。
 
8月8日(水曜日)頃から、流石の私も、母の急激な痩せ方と、死相が浮かんだ顔を見て不安になり、
その時に初めて、胃を摘出する事を知った。
母宅の茶碗を洗いながら、今迄の呑気な自分を呪った。
 
8月10日(金曜日)大腸検査をする為、前日は絶食。
ただ虚ろな目をして横になってる母を見て、【どうしてこんなになる迄、放ったらかしにしておいたの?】と自分を責めた。
 
「明日の検査付いていくよ!」と言うと、「タクシーで行くから付いてこなくても良い」と強気で言った。
 
10日の朝、様子を見に行くと、何時も強気の母が「あんた、今日付き添える?」と聞いた。
私は産まれて初めて、母の弱気を見た。
大急ぎで夫の母に子供達を見てくれる様電話をかけた。
しかし往復に掛かる時間で、
母の気持ちが変わる事を恐れた私は、近くの友達に電話をかけて、
友達の家の玄関に子ども達を置いて、急いで母を病院に連れて行く。
 
待たされてる間に、大腸検査のナースに、「こんな状態で検査出来るのか?」「痛みが激しいので痛み止めをしてくれ!」等と怒鳴る。
 
何時もなら「大騒ぎするな!」と文句を言うであろう母が、黙っていた。
消化器科の主治医に、「こんな状態では心配で家に連れて帰れない!何とかしてくれ!」と怒鳴る。
 
予定していた大腸検査も全部こなす事が出来ず、手術に必要な部分のみ、手短に済ませ、そのまま点滴、緊急入院となる。
母が点滴している間に、母の事を
心配していた母の妹に電話する。
母の上司に入院の旨を伝える。
 
叔母は直ぐ電車で来てくれ、叔母の顔を見て、やっと安心したのか、私に「帰っても良い」と言う。
 
入院に必要な物を買い揃え、子供達を迎えに行く。
子供達はもう夕飯もお風呂も済ませて、後は寝るだけにしてくれてた友達には、感謝しか無かった。
 
8月11日(土曜日)母宅に泊まった叔母と二人で、病院に行くと、少し顔色も良く元気になっていた。
 
昨日怒鳴った主治医に呼ばれ、
貧血が酷いので、造血剤を使う事、栄養状態が悪ければ高カロリー点滴をして体調を整えてる事。
手術予定日が8月24日に決まったが、緊急手術が行われるかもしれない事。
体調を整えてからの手術の方が、術後の経過が良く安心な事。
等の説明があった。
 
8月12日(日曜日)叔母を朝から、母の所に送って行き、2時頃、様子を見に行くと、私が着く直前に、母は急に痛みが激しくなり、動けなくなったとの事。
尿の管を付けられ、酸素状態も悪いので、ナースステーションの中の処置室にベットを移される。
 
消化器科の主治医と外科のドクターが、何度も見に来ては、首をかしげる
「細胞検査の結果、悪性では無いので、悪性で肉腫が破裂する事は有り得ない。熱も無いので腹膜炎も考えにくい。」と言う。
 
結局その日は何も解らずに、痛み止めを何度もし、叔母が泊まり込む。
「顔が暑い!」と言うので、ずっと叔母がウチワであおぎ続けた。
 
8月13日(月曜日)
外科病棟に移る。
叔母は寝てない為、家に連れて帰る。
父がずっと付き添って、ウチワで、顔をあおいでた。
CTを撮ることになり、CT室の前で父と二人で待っていた。
「イラン事を口走るな!体力が回復してからの手術の方が安全なのだから」と、私が大騒ぎするのを予測してか、父がそう念をおす。
 
母の外科主治医が、重い顔でCT室から出て来て、
「肉腫が破裂して、腹膜炎を起こしているので、今からお腹を開けます!同意書を書いてください!」
と言った。
 
父が病院に残り、私が叔母を迎えに行く。
父は、どんな想いで一人で同意書を書き、手術に必要な物を買い揃えたのか。
 
15時30分に、手術室に入る。
手術は4時間の予定。
怖くて心細いので、夫を呼び出す。
 
16時に、家族が、手術面談室に呼ばれる。
 
外科主治医が、「お腹を開けてみたら、体の中は膿だらけで、胃は全部摘出するけど、食道と腸が繋がる可能性は、10万分の1です!もうその辺の組織はボロボロになっています。手術を進めると、後戻り出来ません!このまま、お腹を閉じますか?」と聞いてきた。
 
私は、夫に支えられて立っているのがやっとだった。
父と叔母が、「先生にお任せします!少しでも可能性があるのなら、手術を進めて下さい!」
と言い切った!
 
面談室を出てから、(もう母に二度と会えないのかもしれない!)
と思うと涙が止まらなくなった。
(母をこの瞬間に、亡くすかもしれない!)
という現実を、受け入れる事が出来なかった。
何も考る事が出来ず、ただ、(母の笑顔が見たい!母の声が聴きたい!)と祈っていた。
 
叔父と従兄弟も到着して、皆で母を待っていた。
 
弟一家は、熊本で一人暮らししてる祖母を迎えに行く途中、手術が始まった事を知り、祖母、母のお母さん「どうか、婆ちゃんが着くまで無事で居て!」と願っていた。
 
21時頃、手術が終わった。
家族面談室に呼び出され、母の体から摘出した胃と、肉腫と脾臓を見せられる。
 
1歳の次女の頭より大きい肉腫で、中が腐ってドス黒く、悪臭が部屋の中にたちこめた。
 
汗だくの主治医は、「手術後30日以内に亡くなることを術死と言いますが、非常に可能性が高いです。特にこの3日が峠です。」と言った。
 
どうして、母がこんな目に合わなければいけないのか、私達を育てる為に必死に頑張って来て、孫四人の成長をこれから楽しみに生きれるのに!
と思うと涙が止まらなかった。
 
面談室を出ると、夫の両親が子供達を連れて来てくれていた。
久し振りに、二人を抱っこ出来て、嬉しかった。
明日迎えに行くと約束して、夫の実家に連れて帰って貰った。
 
0時近くになって、弟が祖母を連れて到着したので、
先ず、私と父と弟がICUに入る。
 
母は酸素マスクを付けていた。
「頑張ったね!」と泣きながら声をかけると、しっかりと「うん!」と答えた。
父は、「感動的だった!意識があるかは謎だけど、お前の呼びかけに答えた!もし、死ぬことになっても、あんな肉腫を抱えたまま逝かせなくて良かった」と泣いた。
 
ICUには、一回3人までしか入れないので、次に祖母と叔父と叔母が入った。
 
生きて帰ってきた喜びと、峠を乗り越えてくれる事への不安で、なかなか寝付けなかった。